極楽浄土に往生するためには阿弥陀如来の救いを信じて「南無阿弥陀仏」と唱えることが大切だと、法然上人は教えています。阿弥陀如来の救いを信じ、南無阿弥陀仏を唱えていると、心も体も清らかになり、人生を心豊かに生きぬき、死後浄土に生まれて仏さまになることができるのです。
浄土に生まれれば、いつまでも浄土に居られるのですが、仏さまとしてこの世に帰ってきて、まだ救われない人々を救うこともできるというのが、浄土宗の教えです。
しかし、当時の比叡山は僧侶達が権力闘争に明け暮れる状況にありました。そこで法然は、比叡山のなかでも真摯に仏道を求める僧侶が集う西塔の黒谷別所で慈眼房叡空に入門します。それから25年間、救いの道を求めて苦悶しながら、ひたすら仏道を追い求めます。
そしてついに43歳の時、善導大師の「一心に阿弥陀仏の名をたたえて念仏を唱えれば極楽往生できる」という教えに触れ、浄土宗を開宗します。この「念仏を唱えれば救われる」という教えはまたたく間に広まりました。しかし、既成宗派から「伝統的な仏教を否定するもの」として弾圧を受け、讃岐に流罪になります。後に許されて京都へ戻り、現在の知恩院の地で80幸の生涯を閉じます。法然の死後、弟子たちによって浄土宗はさらに広まってゆきました。
7世紀中頃のインドで、当時衰退の傾向にあった仏教の復興運動がおきました。この運動によって密教が盛んになり、西インドで「大日経」が、南インドで「金剛経」が成立します。「大日経」は善無畏三蔵によって陸路で、「金剛経」は金剛智三蔵によって海路で中国に伝えられました。中国に伝わった密教は、始めこの2派に分かれていましたが、空海の師匠である恵果和尚によって統一されます。
弘法太子空海は宝亀5年(774年)讃岐国に生まれ、15歳で都にのぼり、仏教をはじめさまざまな学問を学び、各地の山野で修行しました。そして密教の実践を学ぶため中国へ留学、恵果に入門します。
恵果は空海に会うなり「私はあなたが来るのを待っていました。すぐに密教の奥義を伝えましょう。」といったそうです。
つまり恵果は1000人を超える弟子の中から正統な密教の継承者として空海を選んだのです。空海は帰国後、全国行脚を経て真言宗を開きます。
真言宗は興教大師覚鑁が高野山座主の時に古義と新義に分かれ、その後さらに分化し多くの派が生まれてゆきます。
高野山真言宗 高野山金剛峰寺 和歌山県伊都郡高野町高野山
醍醐派 深雪山醍醐寺 京都市伏見区醍醐東大路町
東寺真言宗 教王護国寺 京都市南区九条町
泉桶寺派 東山泉桶寺 京都市東山区泉桶寺山内町
御室派 大内山仁和寺 京都市右京区御室大内
大覚寺派 嵯峨山大覚寺 京都市右京区嵯峨大沢町
善通寺派 五岳山善通寺 香川県善通寺市善通寺町
智山派 仏頂山智積院 京都市東山区東山七条下ル東瓦町
豊山派 豊山長谷寺 奈良県桜井市初瀬
真言三宝宗 清荒神清澄寺 兵庫県宝塚市
そこで、阿弥陀如来は私たちのような者を救おうと誓い、浄土を建立した浄土に生まれる道を説くのが真宗の教えなのです。阿弥陀如来は私たちのような者こそを、救いの対象にしているのだと説いているのです。
また、真宗では、「阿弥陀如来に帰依すると決めた時点で、誰でも仏になることが約束される」としています。ですから、阿弥陀如来に帰依した後の念仏は仏になるために唱えるのではなく、仏になれた感謝の表現として唱えるものなのです。
自分の修行などによって極楽浄土へ往生しようとする「自力念仏」ではなく、阿弥陀如来を信じ感謝の心とともに唱える「他力念仏」が真宗の念仏なのです。
しかし、念仏禁止令が発布され、越後に流罪。流罪先で結婚した親鸞は非僧非俗(ひそうひぞく)の境地をひらき自らを「愚禿親鸞(ぐとくしんらん)」と名乗ります。流罪が許された後、妻子を伴って関東で布教を始めます。そして元仁元年(1224年)浄土真宗の根本聖典になる「教行心証」を執筆、この年が立教開宗の年とされています。
晩年は家族とともに京都へ帰り、90歳で往生するまで、盛んに執筆活動を行い、同時に関東の弟子たちへ手紙で指導を続けました。
親鸞の死後、教団は次第に衰微してゆきますが、第八世蓮如によって再興をはたします。そして、巨大教団へと発展したため、他宗派や大名からの弾圧がはじまります。織田信長の本願寺攻略をはじめとして、時の権力者に翻弄され西本願寺と東本願寺にわかれますが、宗勢は衰えることなく、現在に至ります。
坐禅の力は、必ず個人生活・社会生活に現れてきます。 つまり坐禅と日常生活は一つ(禅戒一如)なのです。 ですから日常生活を大切にして、今、ここで生きているかけがえのないいのちを事実のままに生きることこそが、修行であり、この自己の修行がそのまま仏の行であると教えています。
わが国に曹洞宗を開いた道元は、正治2年(1200)内大臣久我通親の子として京に生まれました。幼くして両親を失った道元は、13歳の時に比叡山に上り、天台教学を学びます。しかし、天台宗に疑問を抱き、18歳で建仁寺に栄西を訪ねます。そして、貞応2年(1223)に中国に渡り、如浄を師として曹洞禅を学びました。
良心脱落の境地を得て帰国した道元は、宇治に興聖寺を開きます。その後、越前に移り永平寺を建て、自らの理想とする正伝の仏法の提唱と弟子の養成につとめました。
道元から四代目にあたる瑩山は、多くの優れた弟子を養成しながら大衆教化にもつとめ、現在、日本最大の寺院数を誇る曹洞宗の素地をつくりました。曹洞宗では道元を宗派の父、瑩山を母にたとえ、両祖と仰いでいます。
室町時代には武家の帰依を受けた夢窓疎石らによって臨済宗は発展を遂げ、建築や水墨画、文学などの禅文化が花開きます。また、大応国師、大燈国師、関山慧玄によって「応燈関の法灯」と呼ばれる系譜も形成されます。そして、江戸時代中期に白隠慧鶴によって現在に直接つながる臨済宗の教義が完成したのです。
日蓮宗ではお釈迦さまの説かれた教えの中でも『法華経』こそが、世の中を救う絶対最高の教えであるとします。その法華経を説かれた、実際に歴史上に存在されたお釈迦さまは「久遠実成の本仏」が自身を表した姿です。久遠実成の本仏とは、永遠の昔に悟りを開いた仏さまという意味で、法華経も、本仏が経典として、実態を示したものなのです。
法華経を日本に広宣流布した日蓮聖人の教説を通して法華経を理解し、実践してゆくのが日蓮宗です。法華経は本仏の声そのものであり、法華経の功徳すべてが「南無妙法蓮華経」の七文字にこめられていると日蓮聖人は考えました。そこで、「法華経の内容をすべて信じ帰依する」という意味の「南無妙法蓮華経」を唱えることを、何よりも重要な修行としています。
清澄寺に戻った日蓮は、建長5年(1253)清澄山頂に登って「南無妙法蓮華経」の題目を高唱し、立教を宣言します。その後、「法華経を広めようとする行者は難にあり」という法華経自体に書かれている予言通り、「松葉谷の法難」「小松原の方難」など数々の難に遭い、死の危険にさらされることになります。
「社会に天災や疫病などが続くのは邪法・悪法がはびこっているからだ。法華経信仰によって国土の安穏をはからなければならない」と説いた『立正安国論』を執権北条時頼に提出すると、その内容を幕府に危険視され伊豆に流罪(伊豆の法難)。さらに「龍の口の法難」では斬殺寸前となりますが稲妻によって奇跡的に逃れ、佐渡に流罪となります。
文永11年(1274)ようやくゆるされた日蓮は身延山に入り、61歳で生涯を閉じるまで著作と後進の育成につとめたのです。
この法華経を中心に、菩薩戒・顕教・密教・禅法などを融合した総合仏教といえます。これを「四宗相承(ししゅうそうじょう)と言い、円・密・禅・戒、そして念仏を法華経の精神で統合していこうというものです。
そして、すべての人、生物、存在には仏になる可能性があると教えられています。天台宗宗憲には「天台宗は宗祖大師立教開示の本義に基づいて、円教、密教、禅法、戒法、念仏等いずれも法華一乗の教意をもって融合しこれを実践する」とあります。
天台宗の名のルーツは中国の浙江省天台県にある天台山にあります。
中国隋代に天台宗を開いた天台大師智顗は、天台山を修行の地に定め根本道場を開いたため、天台大師と呼ぶようになりました。
わが国に天台宗を開いた伝教大師最澄も、中国に留学中に天台山で修行しています。
最澄は天平神護2年(776年)近江国に生まれました。長じて、当時のさまざまな仏教を学び修行した最澄はやがて天台大師の教えに出会い、なんとしても中国に渡り天台宗の極意を学ばなければならないと決意、留学を果たします。
そして、中国で研鑚を重ねた後、多くの仏教典籍とともに帰国し、日本に天台宗を開くのです。開宗は、延暦25年(806年)1月26日とされています。
※資料提供:鎌倉新書 2分でわかる仏事の知識